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Posted by TI-DA at

2024年03月20日

◆あなたはいまより幸せにならない

「あなたはいまより幸せにならない」というメッセージは、毒にも薬にもなります

このメッセージを書いてある通りに読むと、無意識に"あなた" →  "私" と頭の中で変換します

"私"とは、氏名、性別、年齢、職業、家族内の立場などの概念で構成されていますから、

「男(もしくは女)としていまより幸せにならない」

「歳だからいまより幸せにならない」

「夫(もしくは妻)としていまより幸せにならない」

などと読み替えてしまうでしょうから、その時このメッセージは毒になります

男(もしくは女)や、夫(もしくは妻)としての理想ガあり、理想が実現することが幸せだと信じています

その信ずる心が否定されるわけですから、怒りや葛藤を生むメッセージとなるからです


では、このメッセージをブログに書く側にとってはどうでしょう?

”あなた”とは書いていますが、具体的な誰かを指し示している訳ではありません

ブログにメッセージを書いても、誰がそれを読んでいるのか、はたまた読まれているのかさえも分かりません

ですから、”あなた”は、全体だとか、宇宙だとか、もしくは神や仏といった事柄も含めてメッセージに書き記します

仮に神という言葉で置き換えますと、「神はいまより幸せにならない」となります

神という概念は完璧さを含意してますから、「完璧はいまより幸せに(良くは)ならない」と、当たり前のことを言ってることになります

当たり前のことを言ってるに過ぎないので、この種のメッセージは相手にして執着せず、手放しましょう

手放せることが出来るようになれば薬となります


「あなたはいまより幸せにならない」というメッセージは、禅の公案の類です

メッセージに引っかかって、アレコレ意味なんて考えても無駄です

"あなた"を"私"に読み替えて、頭でアレコレ考えたりしないことです

アレコレ考えていることに気付いたら、深追いせずに放っておくことです
  

Posted by 模察 at 09:00Comments(0)

2024年03月18日

◆真の人間

真の人間(=あるがままの私)は、過去などにまったく執着しない

過去はもういまここにはないのだから、決してあとを振り返ることがない

真の人間は瞬間(=いまここ)に生き、未来に対しては開いたままでいる

現在は真の人間のものであり、その現在ゆえに真の人間は未来を受け容れることができるようになってゆく

いまここで起こることはすべて受容であり、排除できるものは一切無い

真の人間の窓は風に、雨に、太陽にいつも開かれている
  

Posted by 模察 at 10:00Comments(0)

2024年03月12日

◆生死もまた夢

「自分は生まれてきた」だとか、「自分は死ぬのだ」というのもまた夢です

一般的な常識は、母親の胎内から出てきた瞬間が誕生です

「生まれてきた(誕生した)」と述べるためには、生まれる前の過去が必要です

しかし、生まれる前という過去は本当に事実でしょうか?

母親の胎内に居た時、あなたの身体は無かったり、死んでいたのでしょうか?

ここは、理屈でじっくり考え直してみてください

生まれる前という過去は事実ではないことがわかりますか?

だから、「自分は生まれてきた」という言説は夢(幻想)です

無意識にその夢を事実だと信じてきただけです

裏を返すと、夢に騙され続けてきたのです


「自分は死ぬのだ」というのもまた夢です

過去の経験として、自分が知っている人の身体が動かなくなるという記憶(経験)を"死”と定義しました

定義もまた夢です

「死がきっと自分にも訪れるだろう」という夢を想像し、不可知(=過去の経験が無い)であるから恐れを感じます

「死後の世界はどうなんだろう?」という夢を想像し、不可知(=過去の経験が無い)であるから恐れを感じます

こういう夢を想像することが止まない人に問います。「あなたは”いまここ”で死を経験してますか?」

”いまここ”で死を経験している人なんていないのに、死という夢を想像して恐れを感じているのです

悪夢を見ているようなものです

全体(宇宙)において、物質の縁として身体が形成されるた時から、私たちは心に映し出される夢を見ているのです

仏教で言うところの”心身一如”です

しかし心とは空っぽなのです

空っぽな心に、意識が生じます

意識とは光の別称です

空っぽな心がスクリーンとなり、光に照らされている様子を見ているのです

  

Posted by 模察 at 09:00Comments(0)

2024年03月10日

◆悟りは夢

目の前に在るものにラベリング(名付け)をしても、名前は目の前に在るそのものではありません

あなたが『私はこの身体』と信じていても、この身体そのものは"私"ではありません

"私"というのはあくまで概念で、身体とうい物質そのものではありません

ラベリング(名付け)手放すと、いまここの事実はすべてが現れては消え去るだけです

その様子を"変化"と表現することもありますが、"変化"とは過去から今へと移り行く様子ですが、これもまた概念です

"変化"もラベリング(名付け)ですから手放す


いまここは常に移ろいでいます

目の前の物質は常にあり続ける様に思えますが、"あり続ける"というのもまた概念です

"あり続ける"という概念は、過去の記憶といまの目の前の様子を比べて、何も変わってないと思い浮かべることです、

概念はすべてです

思考・考えなど概念は、いまここに浮かんできたなら、浮かんできたことそのものは事実ですが、内容はすべてです


「悟りとは?」とか「目覚めるとは?」と想像しても、それもです

「まだ悟ってない」とか「まだ目覚めてない」と感じるのは、悟った時や目覚めた時の様子を思い浮かべて、それと自分のいまの身体の様子を比べて、合致してないという感想を思い浮かべているのです

馬鹿々々しいですよね?

の中でを見て迷っているのですから


時々、自分は悟り人だと自称し、その証明として悟った時の経験(様子)を話したり書いたりする人がいます

その経験を物差しにしようとすることは無意味です

「光を見た」だとか「突然、目の前が変わった」などの悟りの描写です

経験は過去です

過去を思い浮かべることはであり、の中で「悟った!」というを見ているのです

  

Posted by 模察 at 08:00Comments(0)

2024年03月07日

◆ラベリング

ラベリング(名前付け)について書いてみます

『この身体は"私"ではない』という言説の真意が伝わるかもしれないと思い書きます


いま、あなたの目の前には何が映って見えますか?スマホでしょうか?パソコンでしょうか?

いま、私の目の前にはパソコンが映って見えていますので、私の視点になったつもりで読んでください

私は、なぜこの目の前の物体をパソコンだと考えたり、言葉を発したりしているのか?

これは、私の過去の記憶や経験が原因となり、目に映る物体の形や触った時の感触などから、

「この物体はパソコンである」とラベリングしているからです

生まれて物心がついた頃から、私は常にこのラベリングを重ねてきたので、物体や現象に名付けをすることは極当たり前のことして無意識に行います

この無意識の行い『目の前の物体 → パソコン』を意識してみます

『目の前の物体 → パソコン』は、ラベリング(物体に名前を付けること)です

目の前の物体は、物体に反射した光を網膜が受光した信号を脳内で処理した情報です

パソコンは、言葉という想念(思考・考え)や、口から発せられる音の情報です

これらは、私の中でまったく別の現象として分別できますので、「この目の前の物体は、本当にパソコンなのだろうか?」と疑心が起きます

この疑心を確かめるため、目の前の物体から目を離して、どこか別のところに目をやりながら、パソコンの形を想像してみます

すると先ほどまで見ていたパソコンの形が想念として浮かんできますが、それは曖昧でぼやけていてハッキリしません

そのぼんやりした形は想念であり、視覚から得た情報とは似て非なるもの、もしくはまったく別のものです

つまりお伝えしたいことは、目の前の物体とパソコンはまったく異なる現象だということです

まったく異なる現象同士を無意識にリンク(紐づける)しているのです


パソコンという言葉そのものは、目の前の物体そのものになることは絶対にあり得ないのです

ここで言ってることが皆さんの中でハッキリすると、「この身体は”私”だ」という想念はまったくの嘘であるという理解が起きます

パソコンを操作している”モノ”を見て、「これは私の手だ」という想念が起こっても、”モノ”そのものは”モノ”そのものであって、

”私の手”どころか”手”ですらあり得ないのです


あなたが物心がついてラベリングをはじめる以前の赤ん坊の頃の様子に戻ってみてください
  

Posted by 模察 at 11:00Comments(0)

2024年03月05日

◆手放す

言葉や文字でどこまで伝わるかわかりませんが、『手放す』ということについて

「思考・考えを手放す」ことをまずは物質の世界で比喩します

手元にボールや消しゴムなど、落としても壊れない物質を用意してください

その物質を手で握り、空中に持ち上げてみてください

持ち上げた時に感じる感触に注意してみてください

物質の重さや、それを握る指や腕の感触に気付いてください

指や腕に感じている感触に注意しながら、物質を手放します

やり方は、意識的に指をパッと広げるのではなく、指や腕の感触を緩める感じです

感触を緩めると同時に、物質の重さも消えることに気付いてください

「思考・考えを手放す」ことはこの現象に似ています


元々、思考や考えは実体はないので質量ゼロ、つまり重さはありません

ですが、過去の忌まわしい出来事の記憶や、先が見通せない未来に不安を感じます

その感じはさまざまな言葉で形容されます

罪悪感、不安、悲しみ、絶望感、自己嫌悪、緊張感などなど

思考や考えは実体はないのですから、なにかを感じるというのはおかしいのです

このおかしな感触を起こしているのが、『私の~』という幻想(夢)です

ただ起こっただけに過ぎない思考・考えを「私の思考・考え」だとするために「私の身体」が

思考・考えを掴もうと無意識に働いている様子がその感触の事実です


思考・考えが起こっても、それを掴まないことが最善です

しかし、長年の習慣で、身体は無意識に思考・考えを掴んでしまいます

掴んだことは、身体の様子を注意深く見ればわかります

罪悪感、不安など、物質で"重さ"に相当する感触のようなものを感じるなら、思考・考えを掴んでいます

その感触を消そうとしたり、否定するのではなく、身体をできるだけリラックスさせたり、深呼吸したり、

「いまこう感じているんだ」と起こっていることを赦して感じるがままにしてください

感触に気付いてあげると必ずその感触は消えていきます

罪悪感、不安が起こっても、それは悪いことでも良いことでもありません

それが、今ただ起こっているだけで、起こったことは必ず消え去ります


思考・考えを起こらないようにしたり、思考・考えを無理に手放そうとすることは無駄です

「手放す」という言葉を掴んでしまっているからです

「私」も言葉や観念にすぎません

実体はないのです

最終的にこの言葉を手放すために、いま起こっているあらゆる思考・考えを手放すことを続けてみてください
  

Posted by 模察 at 09:00Comments(0)

2024年03月02日

◆夢

"夢のなかにゆめとおもふもゆめなれば ゆめをまよひといふも夢なり”

鎌倉時代の禅僧『夢窓国師』の法話の一節を備忘録として記事にしました

この一節において国師が語った夢の意味ですが、現代日本語では、

「睡眠中に、いろいろな物事を現実のことのように見たり聞いたり感じたりする現象」が一般的だと

思います

夢の対義語は現実(「事実として目の前にあらわれているものごとや状態」)ですが、

言葉のもつ意味による解釈などといった二義的な思考・考えでは真意は伝わってきません


国師が説いた夢とは、仏教用語で言えば空や無自性です

この宇宙に出現する全ての物質(自分の身体含む)、身体が感じる五感の様子、思考・考え・感情

などの一切は、縁によって起こる現象であり、一時も止まることなく現れては消え去り、果てしなく

永遠と変化するだけということです

つまり、目が覚めている時に目の前のことを「現実だ」と思うこともまた夢

ノンデュアリティ的に「世界は全て夢なのだ」と思うこともまた夢


現実に対する夢があるのではなく、心に生じる身体が感じる五感の様子、思考・考え・感情は、す

べて泡沫のように生じては消え去るのみです

「目の前に物質が現実としてある」と思っても、その映像は心に映った現象でしかなく、別の方向

に顔を向けると、やはり泡沫のように消え去ります

心とは、すべてを映す鏡のようなもの

すべてを映し出すことができるのは、心には何も無いから(つまり”空”)

何も無いはずなのに、すべてを映し出す

すべてを夢として


ですから、「幸せだ」と思おうが、「不幸だと」と思おうが、「悟った」と思おうが、「迷いの中だ(悟って

ない)」と思おうが、すべては夢なのです

  

Posted by 模察 at 18:00Comments(0)

2024年02月26日

◆激動の時代

前回の更新から、三カ月間が空きました

たった三カ月間なのですが、あまりにも多くの出来事がありました

プライベートなことはもとより、天災、国際紛争、政治問題、文化・芸能、経済など全ての面で激動しています

それぞれの面で何がどうなっているかは割愛しますが、同じように感じてらっしゃる方も多いかと思います

時間的な表現では、これまで10年単位でゆっくりと変化してきたことが、たった1年で180度真逆になる感覚です

これまで当たり前だと思ってたことが当たり前でなくなったり、悪や敵だと思ってたことがそうではないということに気付いたり

ですから、これから「素晴らしい!!」と思えることが起これば、「人生これで終わりだ」と思えるようなことも起こり易くなってます


では、この激動の時代をどう過ごせばいいのか?

一つは、あなた自身にとってどんなに素晴らしいと思えることも、どんなに最悪と思えることも、どちらも真実ではないということを知ってください

あなたがどう思おうと、それらは全てあなたの過去の経験から起こる想像に過ぎないということです

想像に実体はありません

あなたが学んできた学問、習慣、しきたり、感情を伴う過去の経験などは全て「いまここ」の真実ではなく、単に「いまここ」に起きてきた現象に過ぎません

現象は、現れては消え、現れては消えることに気付いてください


もう一つは、全ての現象は空っぽで何もないところから現れては消え去ることを知っておいてください

あなたの五感で感じることも、全て何もないところから現れては消え去っていることに気付いてください

全ての現象は現象として起こるがままで、あなた(自我)にはどうすることもできません

「現象が起こることはどうすることもできない」と完全に諦め切った時、「根源には何もない」ということに気付けます

「何もない」は、「何もない」ままだから変化しませんが、それが本当のあなたです

「何もない」が本来の自己であり、神や仏と言葉では表現されてきました


そして、「何もない」から起こる全ての現象も、あなたそのものです

起こる現象はあなたそのものなのに、現象の一つ一つを良いとか悪いとか、正義だとか悪だとか、思考・判断の現象をくっつけるから、「自我」という現象が起こり易くなってるだけのことです

「自我」も「何もない」ところから起こる現象に過ぎません

現象に、手をつける現象が「自我」

ですから、現象は起こるがままだと諦めて、放っておいて手を付けない


「何もない」から現象が起こり、現象もあなたそのもの(「何もない」)である

空即是色 色即是空 

激動の時代は、このことに気付き易くなる、最適な機会です  

Posted by 模察 at 09:00Comments(0)

2023年11月20日

◆今の様子

模察の今の様子を言葉を借りて描写すると、

「ノートPCの画面と机」が見える

「道路を走る車の走行音」が聞こえる

「左右の指とキーボードが触れ合う感触」を感じる

「お尻に椅子の感触と足裏に絨毯の感触」を感じる

ブログを読んで貰うため、便宜的に文字で表現しているが、実際は上記の「 」の中は余計なこと

事実は、「 」の中身は『何か』である

『何か』が『何か』としてここに在る

その『何か』が『何か』と触れ合うことで、現象としての”見える”、”聞こえる”、”感じる”がただ起こっているだけ


頭が左を向くと、「窓」と称される『何か』が見えることが起き、「ノートPCの画面と机」はどこかへ消え去って見えない

頭が右を向くと、「押し入れ」と称される『何か』が見えることが起きて、「窓」はどこかえへと消え去り、もはや見えない

立ち上がると、「お尻に椅子の感触」と称される『何か』の感触めいたものがどこかへ消え去り、今ここの様子としては無い

「 」の中身である言葉や文字に頼らないと、今ここの様子は、常にコロコロと変化しているだけであることに気付く


常にコロコロと変化しているから、絶対に同じことは起きておらず、常に今ここの様子は真新しいといしか表現しようがない

常に変化しているのが今ここの事実だから、常在(変化せず常にある続ける)するものは一つもない

”諸行無常”、”諸法無我”が今ここの事実であることを、あなた自身の身体で確かめる

ハッキリと確証を得られれば、今ここの様子は”現実”ではなく”夢”と同じものだとわかる

このことの意味は、あなたが起きている時のことを実在する”現実”、寝ている時に見る”夢”を非実在と分け隔てる概念の嘘を見破ったということ

”現実”も”夢”も、今ここの様子としての現象に過ぎないという意味で同じことであり、”現実”と”夢”とに分けることは意味が無いのです


実在は『何か』である

実在である『何か』が『何か』として現出し、『何か』と『何か』が触れ合うことで現象が生じているだけであるのが今ここの様子

『何か』を”神”,”仏”、”本当の自己”、”空”、”ゼロ・ポイント・フィールド”、”ブラフマン”などと、どう表現しようが自由だけれど、どれも『何か』そのものではない

なぜなら、どの言葉でも、『何か』を言葉で表現しようと試みる人の過去の経験や記憶の範疇に過ぎないから

ゆえに、あらゆる言葉に惑わされず、”私”という言葉や概念すらも忘れ、あなた自身が『何か』として今ここに在り、現象が現出する今ここの様子に任せることしか出来ない

すると、今ここの様子に足りないものは無く、汚れているものも無く、常に完璧であり続ける様子であることに気付ける

「今ここは完璧である!!」と言葉で表現することすら無用で、余計なことであることに気付ける
  

Posted by 模察 at 08:00Comments(0)

2023年11月11日

◆経験と記憶

この世に生まれた瞬間から、毎瞬々々を経験します

その現れては消え去る一瞬の経験の一部を記憶する機能があります

言葉を教えられる経験をすればそれを記憶し、文字を教えられる経験をすればそれを記憶します

それら経験とその記憶が、有機的に作用しあって起こるのが思考・考えです


それが事実であるからこそ、思考・考えとは『過去の経験とその記憶に限定されている』とは言えませんでしょうか?

限定される思考・考えで、知らないことをイメージしたり、未来に起こることを想像しても、それは限定された檻の中でジタバタしてるに過ぎないのではないでしょうか?


思考・考えを駆使し、知らなかったことを知ったり、分からないことが分かっても、それは檻が少し広がっただけで、相変わらず檻の中に起こる居ることに変わりはありません

『分かる』や『解かる』とスッキリした感覚になりますが、それらは所詮、経験と記憶との整合性が取れたというだけのことです

幾ら知ってることが増えても、多くのことが分かったところで、無限に広がる檻の外と比べれば、お話になりません


あなたが探し求めている神や仏、真理や本当の自己などは、檻の外のことを指し示しているのです

本当の自己は檻の外にいるのに、本当の自己が経験や記憶によって自己洗脳や自己催眠に掛かっているようなものです

お釈迦様など覚者の言葉を知ったり、分かったりしたところで、それは自己洗脳や自己催眠を深めているだけなのに、それに気づいてないのです

悟りをイメージしたり、悟った状態を知ろうとすることは、檻の中から外の世界を眺めようとするようなもので、まったく無意味で無駄なことです


自己洗脳や自己催眠から、本来の自己が覚めることが自覚です

自覚は、自己を俯瞰して見ること

それが催眠や洗脳を解くうえで非常に有効なのです

自己の何を俯瞰して見るのかと言いますと、いまここで毎瞬々々起こる経験(見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、感じること)、蘇る過去の記憶、思考、考えなどそれら全てに価値・判断をつけないことです

価値・判断をしないとは?

有る・無い、良い・悪い、善・悪、美・醜、あるべき・あるべきでないなどなど、全ての二元的な物の見方をしないことです

たとえどんな記憶や思考が起こっても、それら全てになんの価値もなければ、二元的に分別をつけるべきことはなにも無いのです

知ってるや知らない、分かるとか分からない なども同じこと

坐禅や瞑想を理屈で分かってからでないとやらないとか、価値(メリット)が認めることができればやるという考えはまったく愚かなことなのです

そんな価値・判断に拘り続けると、死ぬまで檻の中で、本当の自由が分かる時は訪れません
  

Posted by 模察 at 10:00Comments(0)